話の上手い下手はパッケージ調整にある

ブログ記事を書く。そう思ってから、自分の思考に変化が多少ある。
それが”どうやってパッケージしよう”という感覚。

出来事を出来事のまま書いても仕方がないし、思っている事を思っているまま書いても仕方がない。どういうサイズがいいのだろう?

細かく書けばいいってものでもないけど、大雑把すぎてもダメだろうし。どういうサイズで書けばいいのだろう?

そんな事ばかりを考えている。

 

そんな事を考えていると、ふと、話がうまい人や文章が上手い人は、話のパッケージ化が上手いよな…って思うことがある。

サイズ感、粒度、解像度が丁度いい。
何が言いたいのかがちゃんと伝わるのは当然で、読んだ後の感想もちゃんと残る。そんなちょうどいいパッケージ感がある。

それが自分にはまだまだだな…と良く感じるし、だから、どういう切り口で書こうかといつも悩んでいる。

 

例えば、この記事はパッケージ化に悩んだあげくに書いているわけだけど、どういうサイズ感で書こうか、どういう角度で書こうかという部分で明確な答えがあるわけじゃない。

話のパッケージ感ってあるよな…って思ったので、そのまま書いているのに近い。落ちも明確にあるわけでもない。

書いてみて、伝えてみて、あとはどう思うのかは相手任せでいいやって感じで書いている。

でも、上手い人は伝わり方までをちゃんと考えて設計しているんだろうな…とか思うわけです。

 

この辺は、”怖い話”をサンプルにするとわかりやすいのかもしれない。

怖い話は聞いた人の反応を意識して、過不足なく情報が詰め込まれている。ちょうど良い感じに話を調整して、磨きに磨いて、そういう形に仕上がっている。

落語もそう。漫才もそう。丁度いいサイズにパッケージされている。

逆に言えば、話が下手な人はパッケージの中に詰め込み過ぎていたり、不足があったりする。

自分はまだまだそちらより。パッケージ化の感覚がまだまだ甘いよな…と思っている。


どうやって磨けるのか?ってなると、結局は書いて書いて、自分で学んでいくしかないと思っているのでこうやって書いているけど、それが正解のやり方なのかがわからない。

ただ、下手だな…と自覚しながらも、少しずつ上手くなるように鍛錬し、1年後ぐらいに上手くなったかもと思えていたら、それで十分かなと思っている。ほぼ自己満足でやっていることなんだし。