情報に振り回されない
そうすることが大切だと言うことは情報通信が発達すると同時に言われ続けていることではありますが、実際には情報に振り回されっぱなしだな・・・とよく思います。
誰かがってことじゃなくて、僕が、です。
ではなぜ情報に振り回されっぱなしになるのか、そして、どうすればいいのかを考えると、”情報はキャラ付けされている”ということを意識したほうが良いんじゃないかな?と思うのです。
プレーンで中立な情報なんてものは存在しないと思うんです。
そこを意識することが情報との向き合い方だと思っています。
情報は色付けされた後、どんどん濃くなっていく
必ずすべてに両面がある
人物、モノ、出来事・・・色々なことには両面が必ずあります。
メリットもあれば、デメリットもあります。一面しか存在しないということはありません。
そんな当たり前のことが分かっているのに、世の中は一方に偏ってしまうことが多々あります。
冷静に考えれば、おかしな話です。
両面あるのに、一面しか光を当てない、もしくは当たらない。
なぜなのか・・・。
何らかの意図が働いているのでは?ということは十分に想像されると思うのです。
でも、何らかの意図がそんなに分かりやすく働いていて、それがこんなに効果的に作用するなんてことがあるのかな?と思うと、こんな事を思うようになったんです。
情報の白黒が付くメカニズムが埋め込まれている
情報の白黒メカニズムが社会システムに組み込まれている。
最近よくそう思うようになりました。
意図の有無に関係なく、時間と共に情報の白黒が付くようになっていると思うのです。
例えば、コロナワクチン。
僕は賛成でも反対でもなく、良い面もあれば悪い面もあるということは理解している”つもり”です。自称、中立です。
でも、コロナワクチンに関する情報において、僕の受ける印象では二者択一化されています。
良いという人は全面的に良いと言うし、ダメという人は全面的にダメというニュアンスを感じます。
ただ、いかなる良薬も服用しすぎると毒になるように、副反応リスクがない薬はありません。
にも関わらず、ワクチン推奨派の人から、副反応の存在を頑なに認めないという強い意志を一時期感じていました。
ワクチンが国民にある程度接種されてから、ようやく厚労省が「心筋炎リスクがありますよ」と認めましたが、すでに心筋炎が発症した方もいますから、その方には後の祭りです。
なんなら、かなり早い段階で心筋炎リスクを訴える情報は出ていました。
でも、ワクチンに副反応を訴える人を、知性がないだとか、反ワクチンはヤバい奴というレッテル貼りをしたりして、そういった情報を封殺しようとしていました。
だからといってワクチンが完全な悪だとも思いません。
問題は、青色と決めたら赤色は許さないという空気が簡単に醸成されてしまうことにあると思っているのです。
それはつまりこういう事なんだと思うんです。
伝言されるほど情報はそがれ色が濃くなる
そもそものスタートは中立で両面がある状態だったと思うのです。
それが、伝言ゲーム的に仲介が増えるほど一方の色に偏っていくように感じるのです。
- 人、モノ、出来事などのニュースがある
- 大手メディアがニュースを報じる
- ニュースを見て、印象的な部分を個人がSNSなどで再発信する
- 個人の発信を受けた人が、その発信に自身の色を付けて発信する
- 繰り返した結果、情報に白か黒かという明確な色付けがされている
こういう事が色々なことで起きているように思います。
二次、三次で情報を受け取る時には、一方の情報が削ぎ取られ、一色に濃く染められたものを受け取っていますので、かなり偏った情報を掴むことになります。
そんな濃く色付けされたニュースに影響された人が増えることで、世論が一方に傾く。
そんなことが起きていると思うのです。
そして、一方に傾いている事について反論するようなことを言おうものなら、次はよってたかって叩きにかかったりもします。
例えば、コロナウィルスの年代別の重症化率と致死率と、ワクチンの副反応の発生率を踏まえると、子供世代はワクチンを打つ必要ななく、むしろワクチンを打つことでいたずらに副反応リスクにさらすことにすらなります。
だから、子供には打たないほうが良いとしか僕には思えません。
でも、ワクチン接種推奨派が多数派の世の中でそんなことを言えば、とんでも論者として叩かれます。
そして、叩かれているのを見た人は「あの意見は間違っているから叩かれているんだ」と誤解したりもします。
一応注釈で書かせてもらいますが、重症化予防効果を踏まえると高齢者は絶対にワクチン接種をすべきだと僕は思っています。
要は、ベネフィットとリスクという表と裏を見てから判断すべきだと思うのです。
でも現実は、一方の意見だけが正しんだ!という、考え方と情報の単色化が簡単に進むと僕は思っています。
情報と向き合う時は中立を探すほうが良い
つまり、僕が言いたい事は2つです。
- 簡単に一方に偏る仕組みが社会に組み込まれている
- 意図的に情報を編集されていっているかもしれない
この2点です。
この2点に対する対策を自分なりに持っているべきだと思うんです。
両面を見るための中立化の意識
いかなることにも両面があるのです。
なのに、自分が一方に偏った意見を持っているのなら、そこは疑ってかかるべきだということです。
ある立場から見て、ある情報の都合の悪い部分を隠す、消すといった編集作業をなされることはよくあります。
大手新聞社でもそういう意図的なことを行っていますから、今知っている情報の多くが”情報のキャラ立ち”ということを少なからず行われていて当然なのです。
キャラクターを立たせる時には、見せたい部分から光を当て、見せたくない部分が陰になるようにします。
例えばアイドルはそうですよね。
かわいい、かっこいいという長所だけに光を当てることでキャラを立たせます。シモ関係がだらしないというデメリットがあるのなら絶対に隠します。
そうやってキャラクターを立たせる演出、編集、工夫に全身全霊を捧げています。
これと同じようなことが、情報にも為されているということです。
ある人にとって都合のいいように編集したり、相手を意図的にコントロールするための演出をしているかもしれません。
大抵の情報はそういう情報である可能性が高いのです。
だから、両面を見る、中立に立つという意識を忘れないことが大切だと僕は思っています。
白か黒かを求められた時は基本的に”わからない”でOKだと思っていますし、実際にそうなんです。わからないことが多すぎるんですから、わからないんです。
それでもどちらかを答えなければいけないのなら、超限定的に答えるだけです。
この条件においてはこうだと思う。
今のところこう思う。
そんな感じで答えるようにして、基本的には”わからない”という中立を貫くほうが良いと思っています。
その姿勢は自分自身のためにもなります。
白か黒かをつけてしまうと、結論をつけてしまっているので、そこから先の情報や知識が増えることはまずありません。そこで完結してしまいます。
しかし、”わからない”という状態を保つことができれば、わからないからこそ、聞く、調べる、考えるという機会がありますし、そうするからさらに情報や知識が増えていきます。
だから、自分自身の成長のためにも”わからない”というスタンスを取るほうが良いと思うのです。
白黒をつけるのは全体の両面が理解できてから
白黒をつけるのが間違いだということではありません。
最後は白黒をつけたほうが良いと思うのですが、そこには”質”があると思うのです。
例えば、専門家が両面をシッカリと把握した上で答える”白”と、素人が当てずっぽうで答える”白”は質がまったく違います。
さらに言えば、専門家と呼ばれる人でも”白”と”黒”が分かれるものを素人が簡単に白黒をつけられないはずだし、だからこそ”わからない”という中立の立場を積極的に選ぶほうが良いと思うのです。
もしかしたら、学校時代の体験から”わからない”ことはダメなことだと思う部分があるのかもしれません。わからないと答えると怒られたとか、そういう体験が根底にあるかもしれません。
でも、大人として生きていくためには、”わからない”という中立に自分を置くほうがいい場面の方が多いと思いませんか?
変に味方したようなことを言ったせいで急に何らかの派閥に入れられたり、敵視されるようになったり。
白黒を明確にするというのは、白を味方にして黒を敵にする、白を敵にして黒を味方にするというのを選ぶということでもありますから、迂闊に簡単に決めてしまうと自分の身を危うくさせることにもなります。
”わからない”という立場も立派な立ち位置だということを”わかる”ことが大人にこそ大切なんじゃないかな?なんて思うんです。
そんなわけで
中立的に自分を置くことをイメージしたほうが良いよってことを書かせていただきました。
記事では世論的なことを書いていますが、何もこれは社会全体だけのことを言っているのではありません。
むしろ、身近な生活にこそこういう傾向があるはずで、だからこそちゃんと考えておいたほうが良いと思うのです。
例えば、「Aさんはこんな人だよ」的な評価はその人から見た評価でしかありませんし、一方が欠けた情報というものは、意図的にそう編集された情報だという可能性が高いです。
つまり、あなたにもそう思ってほしくて、そう言っているのです。
そう理解してその情報を受け取ることが大切で、情報を鵜呑みにすると情報に振り回されます。
僕はそう思います。